お酒を飲みすぎることは悪である

お酒を飲みすぎることは悪である

悪酔いしてはいけない

酔った頭で何事かを考えて判断したりすると、それは多くの場合において大きなまちがいとなる。酔った頭で正しく考えることなど不可能だからである。
酔っぱらって何かの誤りを犯したことのある人はすでに痛感しているはずだ。

 

思考に適さないのは、酒に酔った頭だけではない。
喜びや音楽に酔っているとき、激しい感情に囚われているとき、正常な状態と著しく異なる環境に置かれているとき、などの頭も正しい思考ができていない状態になっている。
また睡眠不足、疲労、恨みや憤怒、落胆や失望、満腹や空腹、病気などの状態にあるときも、人間は正しく考えることができなくなっている。

 

そういったもろもろを捨てれば、まるで冷たい頭脳のロボットのようなものになってしまうのではないかと思われるだろうか。もちろん、人間である限り、完全に理性的になることは難しいだろう。

 

しかし、感情的であるよりは理性的であるほうが、より正しい考え方ができる。
ではどうすればいいのか。正しい思考を妨げるようなさきほどのもろもろを自分から遠ざければいいのである。

 

遠ざけるとは、たとえば、自分がそれにかかずらわないようにするということだ。自分が自分の感情に関わらないのである。

 

具体的には、激し怒りがあったとしても、「なんだか、怒っている人間がここにいるなあ」という風に、客観的に、本当の自分とはまったく関係のない他人ごとのようもに見てしまうのである。
これは意識して練習すると身につくようになる。

 

感情と自分自身を取り違えるな

前項の自分の異常な感情にかかずらわないようにする方法は、実は紀元前5世紀頃にゴータマ・シッダールタが教えた煩悩脱却の方法である。

 

自分の中に湧いてきた突発的な感情にかかずらうほど時間をムダにすることはない。
そんな無駄なんか徹底的にはぶいてひたすらクールに生きよ、とゴータマ・シッダールタは教えたのである。それが仏教の本質であり正体である。本当の仏教は宗教ではない。クールな生き方の方法論にすぎない。

 

つまり、思いわずらいやどうしようもない感情から超越せよというわけだ。そうしなければ、正しい判断を下すことなど不可能だからだ。

 

正しい判断がなされなければ、まちがいが生じる。まちがいは新しい問題を生む。それはさらに人間を別の窮地に陥れ、苦しめることになる。苦しんでいる人間はまともな判断ができにくい。そして再び誤った判断…。
こういうくだらない環境を自分の性格や人生だと思ってはならないのだ。