自分の心に触れるものだけをヤル

自分の心に触れるものだけをヤル

琴線に触れるモノ

少年少女が周囲の期待する「いい子」を演技するのも、結果を想定しての行動である。それを引き起こしているのは本人ではなく、周囲の大人たちである。
大人たちが結果にしか意味を見出さない考え方なので、少年少女たちはあえてそれに応えようとするわけだ。
そして彼らはいつかその欺瞞に耐えきれなくなり、彼らなりに失踪する。それは反抗ではない。地獄からの脱出なのだ。

 

何をするにしても人間は結果のために行動すると、結局は日々の意味を失い、総じて生きることの意味を失う。

 

意味を失うことは死だと直感的に感じるから、その恐怖を何かへの耽溺によってごまかすしかなくなる。
ドラッグや遊興はもちろん、老人になって趣味やスポーツ、旅などで自分の不安定な心をまぎらわしている人もいるのだ。

 

地獄の入り口は架空のことではない。結果と意味を同じだとする安易な考え方なのである。

 

心に触れるものに価値を置け

お金やモノより大事なもの
人間の精神に関わらないものに価値を見出そうとすることほどむなしいことはない。

 

物や金銭に価値を置いてみたところで、それは本当の価値とはならない。なぜならば、物や金銭は人間が利用するものであり、それ事態に価値がないからだ。

 

では何が本当の価値となりうるものか。心や精神に触れてくるものだ。
たとえば芸術は物としては何の価値もない。けれども、その表現が心や精神に触れてくるから、わたしたちはそこに他にはない価値を見出しているわけだ。

 

もちろん、わたしたちの普段の言葉にしても人間的な価値を持っている。どういうときに何をどう言うか、そこにわたしたちは相手の心や精神を見ているのである。
言葉ばかりでなく、実は普段の生き方にもわたしたちの心が如実に現れている。

 

心や精神がいつまでも隠されているということはない。どんな心の思いも精神も、顔つきや姿勢や歩き方や言葉や行いに出てくるのが普通なのだ。
それこそが人間が相手にしたり価値を見出すものである。物や金銭は道具にすぎない。

 

だから、それぞれの人間のいろんな生き方が多彩な人間的な価値の現れなのである。